観光案内(旧桂地区)
●石船神社
岩船地区を流れる岩船川の清流沿いにある石船神社は、延喜五年(九〇五年)に全国の神社の中から社格の高いものを選んで記した「延喜式神明帳」にも載っている (延喜式内社)たいへん由緒のある神社です。祭神は鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)、別名天鳥船命(あめのとりふねのみこと)といい、武甕槌命の東征に従った海運の神様ということです。
神体は兜石と呼ばれる周囲一五メートルもの巨石で、これは本殿を造らないで板で隠しただけにしてあります。この姿を見せて悪神をおどすため、と伝えられています。また、拝殿の裏側に長さ六メートルほどの船形の大石があります。このへこみにたまった雨水を日照りの時にさらって神に祈ると雨が降るといわれています。
●矢の根石
石船神社の小さな鳥居をくぐると、すぐ右側に石柵で囲ってあるところがあります。その中に半分土の中に埋まった長さ二メートルくらいの石が一つ。この石は「矢の根石」と呼ばれ、八幡太郎義家の伝説に関係しています。
義家が東国遠征の折、この地方にさしかかると、村人が 「恐ろしい怪獣がいます。退治して下さい」と願い出ました。義家は聞き入れて、怪獣に向かって矢を放ち、見事命中。倒れた怪獣に近づいてみると、正体は石で、矢の根が深く食い込んでいました。これが矢の根石と伝えられ、矢の傷跡らしきものが残っています。
●白山鉱泉
上阿野沢には白山鉱泉があります。主成分は重炭酸マグネシウム、カルシウムで、ラジウムも多く含んでおり、胃腸病に効くといわれています。
鉱泉宿は一軒ですが、周りは山、と鉱泉宿としては最高のムード。そのひなびた味を求めて、夏休みには東京方面からも家族連れが来るということです。
●壁面観世音像
孫根に「観世音」という字名のところがあります。集落の北側に下っていくと、小さな水田に出ます。その向こうに、これも小さな山。その山の南側斜面の一角に、これまた小さな古びたお堂が建っています。前にイチョウとモミジの大木があり、秋の黄葉、紅葉が見事です。
お堂の後ろのがけに四角い穴が掘られ、奥の岩壁に等身大の観世音像が浮き彫りされています。この壁面観世音像は、この地方では「観世音の目つぶれ観音」として知られています。
穴は、お堂に接していますが、わずかなすき聞から自然光があたるようになっていて、のぞきこむと、その神秘的な姿を見ることができます。名前の通り目はあいていませんが、穏やかないい表情をしています。首から下は形がはっ、きりしていません。
この像は徳一大師がこの地を訪れたさいに刻んだもので、大師は一夜のうちに完成させると仏に誓って一心不乱に刻みましたが、いざ開眼というところで鶏が夜明けを告げたため、大師はおのが不明を恥じ、修業をしなおすといって去り、像は未完に終わった、と伝えられています。このことから、観世音の集落では鶏は飼わないといわれています。
●鹿嶋神社
悪路王面形彫刻のある鹿島神社は、本殿の精巧な彫刻でも知られます。
この神社は武賓槌命(建御雷命)を祭神とし、天応元年(七人一年)の創建と伝えられていますが、社殿はたびたび改築され、本殿の彫刻は、いつだれがつくったか、はっきりしません。しかし、屋根の下や外壁の木材に刻まれたツル、トラ、コイ、竜などの動物-そして中国の故事に出てくる賢人たちは、生き生きとした姿をしています。
この彫刻は昭和五十年に極彩色工事がほどこされ、現在は、畳でも薄暗い静かな森の中にある小さな建物なのですが、ハッとするほどの目立つ存在になっています。派手な色合いで、人によっては「日本的実の基準から離れすぎている」という評があるかもしれませんが、これはこれで一種の妖しい美があります。
●悪路王面形彫刻
高久にある鹿島神社には、形相ものすごい人間の首から上の部分だけの彫刻
「悪路王面形彫刻」が伝わっています。これは、坂上田村献呂が倒した敵の大将の首を摸したもの、といわれています。
延暦十六年(七九七年)、全国統一を目指す中央政貯から征夷大将軍に任ぜられた田村麻呂は、奥州遠征の途中この地を通って鹿島神社に武運を祈り奥州におもむいた、と伝えられています。現在の岩手県の平泉の南西にあったという達谷窟にこもって抵抗を続ける蝦夷の大将アテルイ (悪路王) と戦うこと五年、ついにこれを倒した田村廠呂は、途中また鹿島神社に寄り、戦勝を感謝するとともにアテルイの首を納めた、ということです。この首はミイラになりましたが、やがていたみがひどくなったため、これを摸して木製の首をつくったのが、悪路王面形彫刻というわけです。
●万歳藤
上坪の国道一二三号線沿いの大森家の庭に「万歳藤」と名づけられた素晴らしいフジの木があり、季節には美しい花を咲かせています。このフジは徳川光囲(水戸黄門)が激賞して名づけたものといわれ、現在あるのは、そのころの木から芽が出て育ったもので、当時に比べると規模はずっと小さくなつているそうですが、その花の美しさには目を奪われます。常北町の台地に上る手這坂から、このフジが見えます。
大森家は庄屋を務めた家で、屋敷内には、ほかにキンモクセイの大木などもあります。
●徳化原古墳
北方小学校の建っているあたりには徳化原古墳群がありましたが、小学校建設時に大部分が整地されてしまったということです。
しかし、小学校の裏山はそっくり残されました。これが前方後円墳の徳化原古墳で、全長三五メートル、高さ三メートルの規模はそれほど大きいものではありませんが、死者を葬った石室が完全に保存されており、貴重な遺跡となっています。
北方小学校の敷地に向いて、その石室が口を開けています。タテ二・六メートル、ヨコ一・八メートルもの一枚の巨大な石板をいくつも使ってつくってあります。
こんな大きな石材をどこからどのような方法で切り出して運んできたのだろうか — 遠く原始古代の時代に思いをはせさせる古墳です。
●黒沢止幾子
女流三傑といわれるのは、京都の津崎村岡、筑後の野村望東尼、そして水戸の黒沢李恭です。李恭は黒沢止幾子の号です。
彼女は文化三年(一八〇六年) に現在の桂村錫高野に生まれました。父は 修験者で、家は代々私塾を開いていました。十九歳で結婚、二人の子をもうけ ましたが夫と死別、子どもを連れて実家に戻り、行商をしながら、和漢の学を まなび、文学に心を寄せ、俳句、和歌、漢詩などにしたしみ、すぐれた作品を つくっています。やがて、実家で私塾を開きます。
時は幕末の動乱期。幕政に矛盾を感じ、変革の必要を知った止幾子は、井伊大老の安政の大獄で水戸藩の徳川斉昭も罰せられたと開くと、京都に上って朝廷に斉昭の無実を訴え、勅命によって罪を晴らしてもらおう、と決意。すでに五十四歳になっていましたが、行動に移します。
京都で彼女は憂国の情と斉昭の無実を訴えた長歌をつくり、朝廷に献上。こ れは幕府に知れて、彼女はとらえられ、重罪人を護送する唐丸駕 籠で江戸まで運ばれ、取り調べののち江戸と京都、常陸国への立ち入り禁止処 分をうけます。
しかし、間もなく井伊大老は水戸浪士らに暗殺されて、止幾子は、また実家で私塾が開けるようになります。そして明治五年に学制が発布されると、彼女は地域の人々にこわれて、自宅を学制に基づく小学校教場として開校、自らは日本最初の女性教師を務めました。
明治二十三年止幾子は波瀾に富んだ一生を終えました。錫高野には彼女 の生家が残っています。
●錫高野
錫高野は、村の南西部に位置し、西は高取山を境に七会村と接しています。高取山一帯は、佐竹氏の時代から錫が採掘され、高取鉱山としてにぎわいました。錫高野は初め「高野」という地名でしたが、錫て繁栄したので江戸時代に錫高野と改称。その鉱山も次第に衰え、現在は七会村側でタングステンを中心にした採掘が行われているだけとなりました。
錫高野は山間部にあり、戦前までは自給自足の所だったようです。耕地が狭い割に人家が多いのは、鉱山て働いていた人たちがそのまま住みついたから、といわれています。
この地域を歩くと、道端には四季折々の花か咲き乱れ、ソパ畑、大豆畑、そして水田、と狭いなからも効率よく使われた耕地が目立ち、不思譲と心のなごむ光景にぶつかります。
●大山城跡と大山寺
正平十年 (一三五五年)佐竹氏十代の義篤は、子どもの義孝に大山村(現在の桂村阿波山) を与え、義孝は地名をとって大山氏と名乗りました。大山氏は、ここに入代義景のときまでいて、文禄四年(一五九五年)佐竹氏の水戸入城に伴う一族の配置換えで行方郡の小高城に移り、大山城は廃城となりました。
阿波山の館山と呼ばれる小高い丘が大山城のあったところです(右左写真)。 高根にある大山寺(左中写真)は子どもの虫切りで有名ですが、ここはまた大山氏が深く信仰した寺として知られます。とくに入代の義勝 (義景) は男子を授かるように願文を献じ、めでたく男子を得ています。その願文は寺に現存。鐘つき堂 (右左写真)が立派です。
大山城のあった丘の上には現在ホテルが建ち、当時をしのばせるものは、わずかな堀跡ていどですが、一帯の地形全帯を見ると、それらしい雰囲気が感じとれます。大山氏は天正年間(一五七三~九二年) に、ここから目と鼻の先の常北台地の北端にあった石塚城主と戦っています。石塚城主の石塚氏の祖は、大山氏の祖と兄第という間柄